我々の食卓に欠かせない醤油は、日本のみならず海外でも調味料のひとつとして定着しつつあります。
その醤油を紐解けば、発祥は3000年前、大変古い歴史を持っていることがわかります。
どのようにして醤油が生まれたのか、どのように日本文化に定着していったのか見てみましょう。
発祥は3000年前?醤油の起源とは
醤油の起源を決定づける資料は現存せず、その原型は諸説あります。
最も有力視されているのが紀元前11世紀頃の中国、周王朝の古文書「周礼」です。
ここに醤油の源である「醤」が記されており、これがルーツと考えられています。
日本に醤が伝わってきたのは大和朝廷時代と言われ、高麗や唐の国から製法が伝えられ、醤作りが活発になったとされています。
さらに時代は移り変わり、鎌倉時代、信州の禅僧、覚心が中国の宋より味噌の製法を持ち帰った事が、日本の醤油文化の原点となりました。
全国行脚中、現在の和歌山県湯浅地域が味噌作りに適している事を見出し、その製法を伝えたといいます。
村民が味噌作りを続ける最中、味噌樽の底に分離し、溜まった液が美味しい事に気付き、食事に用いるようになりました。
これが溜まり醤油の原点です。
これらの歴史が、湯浅が醤油発祥の町と呼ばれる所以とされています。
醤油が一般化の兆しを見せたのは室町時代中期以降と言われ、1597年に刊行された「易林本 節用集」にその名が初めて明記されました。
時代が進むと共に醤油も全国に発展していきますが、生まれの紀州産の物が高価で、上方しょうゆとして馴染んでいた事が記録されています。
江戸時代を過ぎると関東でも醤油作りが盛んになり、この頃から食事のみならず調味料としても利用が始まりました。
あわせて、溜に加え濃口が登場し、質にこだわり原材料を調整するなどの特色も出すようになったのです。
醤油作りに必要な醤(ひしお)ってなに?
醤の油と書いて醤油と読みますが、そもそも醤とは何を示しているのでしょうか。
発祥のきっかけは先の古文書通りで、そこには動物・魚類の内臓、生肉、血、骨などを一緒に叩き潰して混ぜ、それを塩と酒で漬け込み、発酵させたものと記されています。
魚を主体として作られた醤を魚醤(ぎょしょう)、肉を主体として作られた醤を肉醬(ししびしお)と呼び、この時代のトレンドでした。
また、後の紀元前5世紀頃に、孔子が醤を食習慣に用いてたことも記述されています。
もう少し進んだ紀元前2世紀前後で、醤に大豆など豆を使い始め、現代で主流となる穀醤(こくびしお)が普及し始めます。
なお、日本で醤が確認されたのは縄文時代後期です。
動物の肉や魚を用いて醤が作られていた形跡が見つかっており、食生活を支えていたようです。
専ら主流だったのは果物や野菜海藻など利用した草醤(くさびしお)・魚醤・穀醤であり、日本の地形や海産物を上手く利用している事が見受けられます。
時代が経つにつれて作り方も多様化し、現代では麦麹や豆麹などを用いて作られるのが一般的です。
当初は100日ほどかけて熟成させたとされていますが、製造期間も短縮され2週間前後で美味しい醤が出来上がります。
江戸醤油の発祥に迫る
前の項でもお話した、信州の禅僧、覚心によって関西地方で醤油作りが盛んになりました。
当時の日本で栄えていた大阪堺は天下の台所と言われ、物流・商業の中心でもあり産業が活発でした。
その頃の江戸地方は醤油以外の食文化も含め発展途上期にあり、物資は一旦大阪に収集され海陸両路を通じて江戸へ運ばれていました。
この頃、現在のヤマサ醤油の創設者である、紀州湯浅の広村(現在の広川町)出身の初代濱口儀兵衛は、本家の紀州から銚子に移りました。
そこでヤマサ醤油を創業したのです。
創業は、江戸幕府誕生から42年後の1645年でした。
そして今日に至るまで、質の高い醤油の製造に精を出し続けています。
濱口儀兵衛は、江戸の醤油文化を築いた重要人物なのです。
そして生産環境選びも、醤油作りに欠かせません。
関東の醤油生産値の中心は野田や銚子でした。
気候条件の良さ、江戸川・利根川など河川を利用した海洋物流のしやすさ、関東平野の中でも大豆や小麦など醤油の原材料の生産に向いていることなどが、その要因として挙げられます。
さらに塩の生産が江戸川河口や行徳で行われていた事から、醤油作りに必要な全ての要素が銚子に詰まっていました。
常陸や下総、上総が江戸醤油発祥の地となった所以がここにあります。
醤油作りに大豆や麦が定着した背景
中国における大豆の栽培は、5000年前からとも言われています。
ですが醤には、先の通り魚や肉などを中心に用いていました。
当時の方達も穀物を使うなど試行錯誤を繰り返し、味の改良を進めていたと見られます。
事実、溜まり醤油も偶然の産物という説があるのです。
そして、諸説ありますが、奈良時代には大豆を使った醤が存在しています。
時は変わり江戸時代、醤油の工業生産が始まった頃に大麦を炒って大豆に加え、風味を醸し出す工夫がなされました。
その後、江戸時代中期には大麦から小麦に変わり、醤油作りが行われるようになります。
この時点で、現代の濃い口醤油に近しい物が完成しました。
大豆に小麦を加えた醤油作りが一般化された要因は、関東地方の気候にあります。
先の通り、関東平野では大豆の収穫が豊富でした。
さらに、関西から来る下り醤油に対抗し、江戸の特色を加えようという姿勢も要因としてありました。
醤油が発祥して長い月日が経つものの、美食への飽くなき探究心は現代にも受け継がれています。
醤油の発祥を支えた菱形廻船・樽廻船・高瀬舟
醤油の発祥に多大な貢献をしたのが、交通インフラです。
特に江戸時代は鎖国政策もあり、海運の重要度が高まった時期でした。
廻船とは現代の貨物船であり、大阪と江戸を結んでいました。
菱形廻船は、醤油を含む食料品を始め、あらゆる物資の輸送をしてたのです。
一方、樽廻船は字のごとく酒樽のみを扱う船で、酒・醤油輸送を専門としていました。
海運が活発になった幕末は、樽廻船もあらゆる物資の輸送を行いました。
輸送速度の早さも相俟って、江戸時代の主力となり日本を代表的する商船となったのです。
高瀬舟は、関東の醤油製造業に貢献しました。
菱形廻船や樽廻船によって輸送された醤油を、小回りを効かして利根川や江戸川から日本橋界隈の蔵に運んでいました。
江戸川河口や行徳地域で生産された塩も、高瀬舟を使って銚子などの生産地に運び込まれていた事でしょう。
兵庫県龍野は淡口醤油発祥の地
先ほど濃口醤油の話が出てきましたが、淡口醤油はどうだったのでしょう。
淡口醤油の起源は、天正初期1587年です。
現在の兵庫県たつの市で、龍野醤油として醸造が開始されました。
その後、1670年頃に醸造者の試行錯誤により生み出された、もろみに甘酒を混ぜて搾った醤油が淡口醬油でした。
色が淡く香り高いことから、この名が付いたとされます。
江戸時代以降から現在まで、塩の生産は赤穂が中心となりました。
加えて揖保川の水、播州平野の大豆・麦、醤油作りなど、欠かせない環境が身近に全て揃ったおかげで龍野の淡口醤油産業は活気づきました。
兵庫県たつの市は現在、淡口醤油の生産高で日本一を誇っています。
東の濃口、西の薄口という文化を支え、西日本の醤油文化の発展に貢献しています。
人口約7万人のたつの市の街並は、当時の面影を残した城下町であり、街全体から淡口醤油発祥の地の雰囲気を堪能できます。
醤油は日本の歴史を物語る
醤油の発祥についてフォーカスしましたが、日本の海運産業や地域の歴史と密接な関係を持っている事がわかりました。
また美食への飽くなき探究心による試行錯誤の末に作られている背景は、日本人の気質あってこそ誕生したことがわかります。
食文化を紐解く事で、国民性を垣間みれるのも醤油の魅力です。