2018年1月現在、醤油醸造所・メーカーの数は約1500と言われていますが、昭和初期には7000軒ほどあったと伝えられています。
時代の流れや天災による売上減少が影響し、蔵を畳むケースが相次いだのです。
今なお生き残る蔵も、アイデアを駆使し困難を乗り越えてきました。
その事例をいくつかご紹介します。
福萬醤油はスプレー醤油で売上げ3倍へ
国内醤油市場は、大手メーカーの台頭もあり飽和状態でした。
2011年、存続と発展のために閃いたアイデアが、減塩醬油のソイゼロでした。
少子高齢化に伴う健康意識への高まり、高血圧人口の拡大などから、減塩メニューがブームになったのもこの頃です。
そこで福萬醤油は、醤油の塩分濃度を0.3%以下にしたソイゼロを開発、さらにスプレー型容器を採用しました。
一吹き0.2mlで必要な分だけ醤油を出せる経済性、持ち運び出来る利便性が支持されました。
塩分を減らした分、旨味を改良して味わいを高めた事で、通常の醤油より少ない量でも美味しく食べられるのです。
その結果、初月の売上げ本数は1万本を越え、会社全体の売上げも前年比の3倍を達成するなど、大成功を収めたのです。
この他にも、福萬醤油は創意工夫を凝らしています。
福岡市内に店舗を構えますが、内観は現代のモダンな雰囲気と酒蔵を思わせる和のテイストが融合しています。
また利き酒ならぬ利き醤油が出来るテイスティングバーを設けたりして、消費者の心をがっちり掴んでいるのです。
日本の伝統を背負うヤマロク醤油
今もなお木樽を使った日本伝統の製法にこだわるヤマロク醤油は、高級レストランなどで愛用される人気醤油の一つです。
創業150年と長い歴史を誇りますが、醤油大量生産時代の突入による安価な醤油の普及に伴い、経営が悪化した時期がありました。
現在では一般的になりましたが、打開策として高品質路線と舵を取りました。
値が張っても美味しい物を食べたい、という消費者に絶大な支持を受け売上げを伸ばし、黒字経営化に成功したのです。
蔵を構える小豆島は、古くから日本有数の醤油産地として、醤油の歴史に貢献してきました。
しかし木樽で製造する蔵は数えられる程度となり、ヤマロク醤油の木樽も寿命を迎えていました。
さらに木樽メーカーも存続の危機を迎えており、一刻も早く打開策を打つ必要があったのです。
そこで、5代目の山本氏は自ら木樽作りの弟子入りを申し出て知識を学び、さらに借金を背負ってまで日本の伝統を伝えるべく新たな木樽を9つ導入したのです。
この姿勢と味が功を奏し、現在は毎年2万人の見学者が蔵を訪れ、生産が需要に追いつかない状態となっています。
醤油作りから街作りへ、八木澤商店
陸前高田市に構える八木澤商店は、創業200年以上を誇る東北の老舗醤油店でした。
しかし、2011年の震災により蔵を失いました。
それにもかかわらず、9代目社長の河野氏は蔵を営み続ける事を決断、社員の雇用も続け、復活に向けて動き出したのです。
震災直後は他の醸造所でOEM生産するなどして経営を繋ぎ、その間に、新たな蔵の準備を実施しました。
そしてその1年後、一関市内に新たな蔵を立ち上げました。
さらに、陸前高田にも八木澤cafeとして出店、原点回帰へ着々と前進しているのです。
復活の鍵は醤油に留まらず、幾多の商材を扱う点にあります。
肉味噌、ソーセージなど一般消費者向けの商材を開発し、インターネット上で販売、これが功を奏して売上げも回復、完全復活への弾みとなりました。
社長は醤油作りだけに留まらず街作りにも奮闘、景色を一望出来るゲストハウスや、教育機関の立ち上げにも奔走しています。
そんな八木澤商店いちおしの醤油が「奇跡の醤」です。
震災前に製造していた諸味が奇跡的に見つかり、大切に育んだ結果2014年11月に初搾りを迎えられたのです。
奇跡の醤は2015年度のグッドデザイン賞も受賞し、今も尚、人々に愛される一品です。
人口900人余りの村が、ゆずを武器に年間売上げ30億を達成
これは徳島県と接する高知県馬路村のお話です。
元々は林業が盛んな街でしたが、昭和中頃、資材の枯渇や海外の安価な木材を輸入する事が増えました。
そのため林業は衰退し、合わせて人口減少が始まりました。
そこで打開策として上がったのが、県内で昔から親しまれていた「ゆず」でした。
ただ当時、ゆずの知名度は低いもので、県外での販売には苦戦したそうです。
しかし地道な努力によって徐々に売上げを増し、通販をいち早く活用したおかげで収益が安定しました。
主力製品は家庭でお馴染みのポン酢醤油や、最近はゆずを活用したコスメ製品などです。
特筆すべきは、馬路村は6次産業化のロールモデルとなり、各方面から注目されている点です。
村内で生産されたゆずを全て馬路村のJAが買い取り、加工・販売、さらにPRもしています。
収益を上げている成功例として、今後も注目される事でしょう。
大分のフンドーキン醤油も苦難の連続だった
九州の雄であり、九州での生産量第一位を誇るフンドーキン醤油もまた、幾多の試練を乗り越えて今があります。
創業は1861年、大きな危機が訪れたのは戦時中でした。
天災や火災により原料を消失。
さらに戦後、味噌や醤油が配給制となったため、原材料となる大豆や小麦が全国的に品薄となったのです。
苦しい経営の中をなんとかやり繰りして、高度成長期まで生き残りました。
この頃は大量生産・安価販売の勢いがあったため、無添加高品質は値が張るため敬遠されていました。
しかし消費者の声を受け止め、日本で初めて防腐剤無添加の醤油作りを実施、好評を得て売上げアップに成功したのです。
しかし1990年代、醤油・味噌も市場が飽和状態となり、食の欧米化も相成って生産量が減少しました。
醤油と味噌のみで売ってきたフンドーキンは、再度岐路に立たされる事になったのです。
そこで注力したのが新商品の開発です。
このタイミングで生まれたのが、現在のフンドーキンの代名詞ともなっているドレッシングです。
和風ドレッシングは日本人のみならず、外国人にも好評で、市場規模は発売当初に比べ2倍以上にも拡大していると言われています。
効率化による利益向上に加え、アイデアで勝負するのがフンドーキンのスタイルです。
醤油売上げナンバーワン企業の戦略
キッコーマンは、日本の醤油市場の実に25%を占めています。
ここまで売上げを拡大出来たのはなぜでしょうか?
関東醤油発祥の地、野田を本拠地とした事もありますが、最大の功績は海外展開でしょう。
2018年現在においても、海外の日本産醤油のシェアは、キッコーマンがほぼ独占状態です。
始まりは1957年にアメリカサンフランシスコに販売会社を設立した事です。
その頃から海外に醤油文化を根付かせる為に奔走、やがて1973年には日本の醤油メーカーでは初めての海外生産工場を設置したのです。
それ以降、世界各国に生産工場を敷設し、現在世界5カ国、7拠点で醤油を製造しています。
2017年における会社全体の売上げのうち57%は海外市場によるものであり、キッコーマンはその比率を75%にまで引き上げる事を発表しています。
これほど愛用されるのは、現地人の味覚に合うよう味の改良を続けているためです。
日本人の食へのこだわりが、世界を席巻している好例と言えるでしょう。
醤油の伝統を守る為に
各ケースとも経営の危機に陥った際、状況を好転させる共通のきっかけはマーケティングでしょう。
人が何を求めているのか調査・検討し、必要な物を提供することで、人気を獲得し売上げを伸ばしています。
醤油の世界に限らず文化を永代まで引き継ぐには、先見性を持って事業に取り組む事が必要でしょう。