江戸時代、経済をまわしていたのは、お金ではなくお米でした。
藩や石高という言葉を、小学校の頃に学んだけれど、意味をきちんと覚えていないという人も、多いのではないでしょうか。
今回は、毎日食べているお米が、江戸時代ではどのように経済をまわしていたのかなどを、詳しくご紹介します。
江戸時代のお金はお米
藩や石高という言葉は学校の授業で習いますが、詳しくはあまり知らない、覚えていないという人が多いと思います。
この言葉は、江戸時代の経済において、とても大切なキーワードになります。
今では、お金を商品と交換する貨幣経済が、当たり前の世の中です。
欲しいもの・必要なものを手に入れるために、私たちは働き、お金を得ています。
しかし、貨幣経済が浸透したのは、それほど昔ではありません。
江戸時代初期、都市には取り入れられつつあった貨幣ですが、農村には貨幣という概念がありませんでした。
農村に貨幣がやってきたのは、江戸時代も中期に入ってからのことだったのです。
とはいっても、江戸時代の後期になっても、農村では貨幣経済は浸透していたわけではありません。
貨幣経済が浸透していない農民たちにとって貨幣は、ほとんど価値のないものです。
江戸時代は8割と、ほとんどの人々が農民だったと言われています。
当時の人々にとって価値のあるもの、それはお米にありました。
私達にとって、お金がすべての基準となっているように、江戸時代の人々達にとっては、お米がすべての基準となっていたのです。
江戸時代、お米でどのように経済が回っていたのか、詳しくご紹介していきます。
江戸時代の藩主と農民
江戸時代、大名のことを藩主、藩主が支配している領のことを藩、と言われていました。
藩主や武士は、自身が支配している土地を、農民に貸しているという立場にありました。
農民たちは米をつくることで生活し、藩主や武士は土地を貸している代わりに、農民たちからお米を年貢として徴収するのです。
年貢とは毎年、農民が藩主や武士に土地を借りている代わりに、お米を差し出すことです。
現代で言えば、税金のようなものです。
これを、藩主や武士は、さらに上の幕府に差し出すのです。
しかし、幕府は全ての土地から、同じ量の年貢を徴収できるわけではありません。
土地の大きさ・環境・状況によって、収穫できる量が異なってきます。
そこで、どの土地から、どれくらいのお米が収穫されているのかを知るために、行われたのが大閤検知です。
大閤検知と言えば、豊臣秀吉がした政策で有名なもののひとつですよね。
この大閤検知が行われることにより、石高という、とても有名な言葉が生まれます。
石高は土地の価値
大閤検知は、全国において行われました。
全国において同じ升を使い、土地の面積を測ります。
面積を測るのは、お米ができる水田だけではなく、屋敷などの建物も含まれました。
計算方法としては、「お米の収穫量×面積」で、その土地には、どれくらいの価値があるのか計算したのです。
そして、その土地の価値を表す単位を石高と言います。
石と言うのは、お米の量を表す単位です。
この村は何石、あの村は何石というように、村や地域に価値をつけていったのです。
土地が小さかったとしても、年貢さえ多く納められていれば、価値は高いということになります。
逆に、土地が大きくても、年貢が納められていないのなら、価値は低いのです。
大閤検知が行われるまで、農民は藩主に直接年貢を納めるのではなく、地域の組織に納めていました。
しかし、組織と藩主でも揉め事が起こるなどの問題もありましたし、藩によって納める基準も異なっていました。
江戸時代に大閤検地が行われたことによって、土地の所有者が1人になり、複雑になっていた土地問題が解決したとも言われているのです。
石高が江戸時代の藩主の力
大閤検知によって、収穫量を想定すれば、次は年貢高というものを決めます。
年貢高とは、石高のうちで、その年の年貢として、納められる数値のことです。
想定されているお米の収穫の半分を、年貢として納められていれば、五公五民。
四割を年貢として納められていれば、四公六民というように言われていました。
生産されたうち、ほぼ半分が年貢になっていたわけです。
また、江戸時代のすべての藩主が、大名と呼ばれているわけではありません。
一万石未満の土地しか所有していない藩主は、大名とは言いません。
それは、旗本と言い、自身の領地に城を建てることは許されていないのです。
江戸に住み、将軍のもとで働かなければなりません。
一万石以上の価値のある土地を所有している藩主になって、やっと大名なのです。
大名は、自身の領地に、お城を建てることが許されます。
その代わりに、江戸に一定の間、居住しなければならない、参勤交代が行われていました。
つまり、石高は藩主の領地の大きさを表すだけではないのです。
藩主の力が、どれほど大きいかということにもなります。
藩主の石高の多さは兵力の多さ
そんな石高ですが、もちろん多ければ多いほど良いです。
一万石あると言えば、一万人の人々が食べていけるお米を、生産することができるだけの土地があるということです。
凄い大きさだと分かりますよね。
それ以上の大きい数字なら、さらに大きい領地を所有していることになります。
お米をたくさん生産することのできる藩主は、兵士のための食糧を準備することができます。
一万石で雇える兵力は約250人。
100万石を持つ大名ならば、動かすことのできる兵力は、2万5000人以上だと言われています。
100万石も持っているとなると、私たちが聞いたことのある有名な名前が多数出てきます。
伊達政宗や今川義元、武田信玄などです。
江戸時代にも、兵士はとても必要な力です。
100万石も所有している大名は、天下を狙えるほどの力を持っているわけです。
石高には『実高』『表高』がある
そんな石高ですが、じつは、なかなか複雑で奥が深いのです。
石高には、『実高』『表高』というものがあります。
実高は、実際の計測後に決まった石高のことを言います。
表高は、漢字のとおり、表向きな石高という意味です。
石高が大きければ大きいほど、藩主の力は大きく見られます。
一見、良いことばかりにみえるかもしれませんが、良いことばかりではありません。
大きな力をもっていると、面倒なことも増えるのです。
江戸時代としても、有名な参勤交代の際や様々なことにおいて、色々な負担を要求されるようになってしまいます。
発展途上の土地は、大閤検知を行なってから時間が経てば、だんだんと発展していきます。
発展すれば、お米の生産量は、もちろん増えます。
しかし、石高は大閤検知が行われたときのままなので、当時と変わらず、同じように石高を報告するのです。
こうすることで、大名は幕府に、実際よりも少ない石高を報告していたのです。
面白いですよね。
興味がある人は、ぜひ藩ごとに、実高と表高の差を調べてみると面白いですよ。
昔も今も変わらない
お米とお金は違うものの、江戸時代の経済のまわし方は、現在と大して変わりませんね。
石高を多く持っていれば、もちろん大きな力をもっています。
石高を多くもっていた藩主を調べてみると、私達がよく知る名前が、たくさん出てきて面白いですよ。
もし気になった方がいらっしゃったら、ぜひ調べてみてくださいね。