江戸時代は時代劇などで取り上げられることもあって、親しみを感じる時代ではないでしょうか。
しかし、江戸の町はもともと新興都市で、インフラ整備のため大勢の武士たちが集められ、さらに地方から仕事を求めて多くの男性たちが集まっていました。
そのため女性が少ないという特殊な人口構成でした。
そのような環境の中で江戸の町人たちの食事とはどのようなものだったのでしょうか。
江戸時代の町人たちの食事は米・米・米!
江戸時代の町人たちはどのような食事をしていたのでしょう。
町人たちの家は主に長屋と呼ばれる今でいうワンルームで、四畳半の板間に土間があるだけの簡素なものが一般的でした。
その土間にかまどをしつらえて調理していました。
もちろん現代と違って炊飯器などありませんから、ご飯を炊くだけで一仕事です。
他におかずを作る余裕はありませんでした。
ですから「一汁一菜」、ご飯、味噌汁、漬物というのが定番だったのです。
また、火をおこすこと自体が大変な作業で、朝に1日分のご飯を炊いたほうが合理的だったため温かいご飯を食べられたのは朝だけでした。
江戸時代前期の頃は朝一仕事終えてから朝食を摂り、さらに仕事の合間、もしくは終えてから食事を摂って、今の時間で夜8時ころには寝るという1日2食が当たり前でした。
さらに一汁一菜という質素な食事内容でしたが、主食の米だけは相当量食べていたようで、成人男性で1食2合ほども食べていました。
米だけで1日に必要なカロリーをまかなっていたのです。
江戸時代の町人たちは調理をしなかった?
特に江戸時代前期~中期にかけては男性の比率が高く、当然独身者が多かったため、自炊しない人も多かったのです。
なにしろ電気など無い時代、1人分の食事のために薪や油などの燃料や食材、調味料を揃えるのは効率が悪かったのです。
さらに「火事と喧嘩は江戸の花」といわれるほど家事が多かったため、家で火を使うことを嫌ったという事情もありました。
そうした町人たちの食事はどのようにまかなっていたのでしょう。
ひとつはすでに室町時代からあった棒手振(ぼてふり)と呼ばれる行商人たちです。
天秤棒の前後にザルや木桶を取り付け、鮮魚、干物、貝のむき身、豆腐、油揚げ、甘酒、汁粉、納豆、海苔、ゆで卵……と、様々な食べ物を売っていました。
もちろん炊いたご飯を売る者もいました。
もうひとつは町のあちらこちらにあった屋台です。
すし、てんぷら、蕎麦などが売られていました。
1人分の食事なら買って食べたほうが手軽で都合がよかったのです。
江戸の奇病。町人たち自慢の銀シャリの食事がアダに
江戸は将軍のお膝元で、全国から年貢米などが集まっていました。
米の流通システムも整備され、長屋暮らしの町人でも精米したお米を食べることができました。
そのため「白米を食べられること」は人々の自慢でしたが、落とし穴もありました。
江戸時代に始まった参勤交代などで江戸を訪れた武士や大名を中心に、江戸に行くと体調が悪くなる、場合によっては寝込んでしまう者が続出します。
ところが故郷へ帰るとすぐに治ったことから「江戸煩い(わずらい)」と呼ばれました。
現代では玄米や麦、粟など雑穀の栄養価の高さが注目されていますが、当時そのようなことが解るはずもなく、また白米至上主義ともいうべき考え方もあり、ビタミンB1不足に陥ってしまいます。
江戸煩いの正体はビタミンB1欠乏症、脚気(かっけ)でした。
わずかなおかずでたくさんの米を食べていた町人たちも例外ではありませんでした。
自慢の白米の食事がアダとなってしまったのです。
原因も分からず悩まされることになりますが、それは明治時代に判明するまで続くことになります。
江戸時代の町人たちはファストフードを食べていた?
江戸時代前期にはすでに棒手振や屋台などが出現して、町人たちの食事も多様化してきますが、江戸中期になるとそれは外食産業として大きく発展することになります。
きっかけとなったのは明暦の大火です。
振袖火事とも呼ばれるこの大火によって、江戸の町は大半が焼失してしまいました。
戦災、震災を除けば史上最大の火災で、江戸城でさえ天守閣を含む大半を焼失しています。
幕府の主導によって驚異的な勢いで復興が進められますが、実際に現場で働いていたのは、多くが地方から単身江戸にやってきた独身男性たちでした。
日中の過酷な肉体労働を乗り切るため、仕事の合間に食事を摂ってエネルギー補給したいという要求が高まります。
それに応えるように、町中に多くの煮売り屋(にうりや)が登場します。
煮売り屋とは煮物や惣菜、団子などの軽食に茶や酒をつけて出す、今でいうファストフード店のようなものです。
それまで町人たちは家で食事を済ませるのが当たり前だったので、町中で誰もが手軽に食事できる煮売り屋の存在は画期的でした。
江戸時代の町人たちの食事は最先端だった?
明暦の大火からの復興の中で生まれたもうひとつの飲食業が料理茶屋です。
これは料理を出すことを専門にした飲食店で、現在の定食屋のようなものです。
米に大豆や粟、季節の野菜などを混ぜてお茶で炊いたご飯と、味噌汁、煮物、漬物をセットにして提供されました。
それまでの屋台や煮売り屋と違うのは店内で飲食させるということで、このような形態の店は当時世界的に見ても珍しく、日本でも初めてのことでした。
ヨーロッパでは日本より100年ほども遅れてこのような形態の飲食店、つまりレストランが登場します。
江戸時代中期には町人たちはすでに世界にさきがけて、レストランで食事をしていたことになります。
このような外食産業の充実によって出先で食事を摂ることが定着し、1日3食という食習慣が一般化する理由のひとつとなりました。
そして屋台から発展して、鰻蒲焼屋、うどん・蕎麦屋、すし屋、天ぷら屋など様々な飲食店が増えていきました。
現代へ続く日本食文化
江戸時代前期の主な調味料は味噌、塩、酢、たまりなどでした。
江戸時代中期~後期になってようやく、現在の千葉県で作られる関東醤油(濃口醤油)が一般に使われるようになります。
さらに高級品だった白砂糖が手に入るようになり、味醂、昆布や鰹節などの調味料が普及します。
この醤油の影響は大きく、蒲焼のタレやそばつゆ、天つゆなど今では当たり前の甘辛味を育てることになります。
このような調味料の普及が町人たちの生活にも定着し、屋台文化を栄えさせるとともに、日本料理を代表する天ぷらや握り鮨、刺身料理など数々の料理が生み出されました。
江戸時代後期には日本橋魚河岸に運ばれる鮮魚流通が発達したおかげで、刺身を専門に扱う屋台も登場したのです。
また、砂糖は菓子用だけでなく他の料理に使用されるようになり、醤油と砂糖を使う煮物料理、うま煮、甘露煮、佃煮などの濃厚な味が好まれるようになり、江戸の味として確立されました。
これも白米中心の食事であったため濃い味付けが好まれたといわれています。
江戸の町人たちが育てた食文化
江戸時代後期、幕末の頃になると、ようやく江戸の食文化が日本の食として確立されました。
日本料理を代表する天ぷらや握り鮨、蒲焼や佃煮など様々な料理が生み出され、今も愛されるメニューとなっていますが、わずか160年ほど前にようやくできあがったのです。
現在私たちは当たり前の料理として当たり前に食べることができます。
それを完成させた先人たちに感謝しなくてはいけませんね。