今も昔も、食べ物にまつわる職業はたくさんあります。
江戸時代、各藩にも食べ物や食事にまつわる役職が存在していました。
今でいうシェフはどんな名前だったのでしょうか。
また、よく時代劇で見かける「毒味役」は実際はどんな仕事だったのかなど、いろいろな疑問について解説していきます。
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江戸時代には様々な藩に食べ物に関する役職があった!
江戸時代、庶民も侍も大名も、食べ物にはことさらに興味がありました。
庶民の生活では、ファーストフード的なイメージで蕎麦屋や寿司、天ぷらの屋台が流行り、「江戸前料理」というものが盛んになります。
浅草海苔や天然のうなぎなど、食材も豊富でした。
「◯◯屋」と銘打たれる専門店のほかにも、「一膳飯屋」「菜売り屋」というお店の形式が広がります。
一膳飯屋は小上がりがあり、食事とお酒を出すお店で、今でいうと定食屋と居酒屋が合体したかのような形式です。
菜売り屋の多くは長屋(今でいう集合住宅)の中にあり、煮物などのお惣菜を持ち寄った入れ物に入れてもらってお客さんが持ち帰る形式のお店でした。
このように、食が豊かになりはじめたのが江戸時代ですが、各藩で働く大名の元にも、さまざまな食事にまつわる役職がありました。
時代劇などで取り上げられてイメージの強い毒味係の「鬼役」や、殿様へ出す料理を用意する「御膳奉行」に、現代でいう調理師が集まった「賄方」など、実にさまざまです。
ひとつずつどのような役職だったのかご説明しますので、一緒に勉強していきましょう。
江戸時代の藩の食べ物関連役職その①御膳奉行
まずは、「御膳奉行」という役職からご説明します。
「膳奉行」とも呼ばれ、「御」がつく場合は、特に徳川付きの膳奉行のことを指します。
藩にはそれぞれ二人から五人ほど配置されており、決まった定員というものはありません。
調理をする人間や仕入れをする人間と相談し、将軍の好みの品などを食事に出すよう掛け合う役職でした。
この役職は伊達政宗の進言で設置され、江戸時代の慶長19年(1614年)からはじまったものです。
お給料ですが、家禄にかかわらず200俵と決まっていました。
殿様用の食事の仕入れや献立の相談のほか、城に住まうさまざまな役職の人間の食事を用意するのも膳奉行の役目です。
今でいう、通勤族の朝食などを用意するのも仕事のひとつだったのです。
寛永・寛文の頃には、「鬼取(おにとり)役」とも呼ばれていました。
これは当時、貴人の食事を試食することを「おにをする」と呼んでおり、「御煮嘗(おになめ)」や「鬼喰(おにぐい)」などの別名も持ち合わせていたからです。
ここからポピュラーなイメージの「毒味役」が生まれ、この毒味役を当時は「鬼役」と呼んでいました。
次項では、鬼役について、少しお話します。
江戸時代の藩の食べ物関連役職その②鬼役
「鬼役」は膳奉行の仕事のうちのひとつです。
主に「毒味役」という意味で、偉い人が食べる食事を一箸ずつ食べる役職です。
なぜ、鬼役などという厳しい名前がついたかというと、前述の御煮嘗や鬼喰からとられたほかに、この毒味役という側面が目立った理由としてあげられます。
毒が入っているかもしれないのに、平気な顔をして食べなければいけないので、周りの人間から「鬼のような人だ」と思われていたからという説があるのです。
毒は入っていなかったにしても、食材を新鮮に保つのが難しい時代なので、腐敗しているなどの事態は考えられることでした。
それを配膳の前に食べて知ることで、大名や将軍には危ないものを食べさせないという重要な役職です。
藩それぞれに三人から五人程度いて、これは誰かが毒で亡くなっても困らないようにするほかに、誰が亡くなっても運が悪かったと受け入れられるようにするためのシステムでした。
この毒味役は平安時代には「薬子」という名前ですでに存在しており、日本では貴人の食事に毒が混ぜられることを常に懸念していた節があります。
鬼役が活躍したエピソードしては、江戸時代の寛文6年(1666年)に、仙台藩の藩主に幼くしてなった伊達綱村が、8歳のときに毒殺されかけたのを鬼役の働きによって免れたというものがあります。
江戸城では、御膳奉行の中の鬼役が毒味をして、それで問題がなければ最後に将軍の口にのぼる前に小姓が毒味するという形式になっていました。
江戸時代の藩の食べ物関連役職その③賄方と台所人
江戸時代の藩の役職で、御膳奉行と同じぐらい大事だけれどあまり目立たなかった役職に、「賄方」というものがあります。
これは大名や将軍、そこで働く人々のための食材や食器を調達する人のことです。
調達だけでなく管理もするのですが、この仕事を見張る役職が調役という名前で、適切な仕入れができているかチェックします。
そして、その仕入れたものの良し悪しを判断するのが、「吟味役」という名前の役職でした。
また、実際に調理を行うのは、「台所人」と呼ばれる人たちです。
これは藩のお抱えの調理人が多いのですが、市中から評判の料理人を連れてきて調理させることもあったようです。
その場合も管理は厳しく、見張り役の人間が常に側にいて調理に当たらせていたとのことです。
毒や腐敗を防ぐのは鬼役の役目でもあったわけですが、それをさらに事前に防ぐ努力もされていたのです。
江戸時代の味見に関する役職を描いた小説「隠密 味見方同心」シリーズ
江戸時代を描いた作品はたくさんありますが、その中でも時代小説では食べ物にまつわるものが増えているのが最近の傾向です。
武士から料理人になった男性の周辺を描いた「料理人季蔵捕物控シリーズ(和田はつ子)」に、「小料理屋のどか屋シリーズ(倉阪鬼一郎)」。
ドラマ化して大ヒットとなった「みをつくし料理帖シリーズ(高田郁)」なども有名です。
そういったシリーズの中から、完結済みである程度のミステリを感じる作品、「隠密 味見方同心シリーズ(風野真知雄)」をおすすめしたいです。
藩の「味見方」という役職に就いた兄弟の話です。
これは料理ネタの中でも一癖も二癖もあるもので、とある兄弟が運命に巻き込まれて味見方となり、食とそれにまつわるミステリーを解いていくストーリーです。
起こる事件が少し行き当たりばったり感はありますが、なかなかに人気があり、全9巻となっています。
サブタイトルも惹き込まれる内容で、「干し卵不思議味」や「恐怖の流しそうめん」など、一瞬首を傾げてしまうものがつけられています。
それが江戸時代という、大仰な時代イメージとミスマッチしていて、とても面白いです。
江戸時代こんな食文化の定着もあった
この頃、各藩の役職だけでなく、江戸時代の食文化は庶民の手によって花開いていきました。
実は今現在定着している「一日三食」が根付いたのも、江戸時代からだといわれています。
江戸時代の中でも元禄期と呼ばれる1688年から1704年にかけて、流通が盛んになった時代に定着したとされており、これには二つの理由が考えられます。
当時、「明暦の大火」と呼ばれる大火事の被害の煽りを庶民たちは受けました。
城や藩の役職におかれていない人間は復興のために日夜働き、それまで朝と晩だけ食べていた食事では保たなくなり、昼にも食事をとることになります。
別の説によると、戦国時代の武士たちの食生活であった「一日三食」がこの頃になって定着したというものもあります。
また、菜種油が安く簡単に手に入るようになり、起きている時間が長くなりました。
そのため、寝るのが遅くなった結果、食事の回数が増えたともいわれています。
こうした背景から、蕎麦屋や一膳飯屋、屋台などが流行るようになり、食文化が開花していったと考えられます。
この食事の仕方は各藩に伝わり、その後の食生活の基本となりました。
江戸時代の藩の役職は摩訶不思議!
さまざまな藩の役職についてや、庶民の生活についてお話しました。
食事にまつわるものだけでなく、江戸時代の役職は変わったものが多いです。
これは形骸化されているものもあれば、重要な意味をもって現代に繋がっているものまで、本当にさまざまです。
現代人の生活は江戸時代とだいぶ変わりましたが、大和魂は同じです。
同じ日本人が変わったことをしている、しかもそれが現代に反映されている、という部分が面白いですね。
興味を持った方は、ぜひ時代小説や時代劇をご覧になってみてください。
きっと面白い役職が見つかるはずですよ。