現代と違う?江戸時代の食生活、庶民はどんな感じだったの?

江戸時代の庶民はどのような食事をしていたのでしょう。
なんとなく、質素だったり健康的だったりするイメージはあるものの、具体的にぱっと思いつかない方が多いのではないでしょうか。

現代の食生活と、大きな違いはあるのでしょうか。

今回はそんな江戸時代の庶民の食生活についてお話しします。

江戸時代に庶民の生活習慣が変化する

今の私たちは1日3食というのが当たり前の生活になっていますが、この習慣が始まったのは江戸時代の中頃、西暦にして1688年から1704年にあたる元禄年間のことだとされています。

その頃から夜間でも灯りが用いられるようになったことから、人々が活動する時間が長くなったことがその背景にあるとも言われています。

では、江戸時代の庶民はいったいどのような食事をしていたのでしょうか。
実際のところあまり豊かそうな食事ではなかったようで、その頃の風俗が描かれた絵を見てみると、お膳の上に飯椀や漬物などを持ったお皿、お箸などを載せて食事として出していたようです。

これは、この頃にはテーブルというものが使われていなかったためです。
当然、炊飯器などなかった時代ですので、お米をお釜で炊いてから飯櫃(めしびつ)という大きな桶のような容器に移していました。

尚、発明家として知られるエジソンが、1日3食の習慣を定着させるよう大きく働きかけたという話もあります。

江戸時代の庶民の食生活

江戸時代の人達はどのようなものを食べていたのでしょうか。

士農工商という身分制度のあった時代ですから、貧富の差もありましたし、食生活も身分によって異なっていました。

裕福でない人たちはおかずをほとんど口にすることはなかった一方で、経済的に余裕のある家では毎日のように美味しいものを食べていると言った具合に、各家庭ごとに食べるものはかなり違っていたわけです。

又、同じ武士であっても大名クラスの裕福な武士もいれば懐の寂しい下級武士もいたわけで、下級武士の方は庶民と大して異ならない食生活をしており、魚なども月に数回位しか食べれなかったと言います。

彼らは幕府や藩から俸禄(ほうろく:給料のこと)を貰ってはいましたが、それだけでは生活が苦しいので、大名屋敷の広い土地の中で野菜を育てるための自家菜園を持っていました。

そこから収穫した野菜とたくあんが下級武士たちの毎日のおかずだったようです。

つまりお米と野菜が中心の食事であり、下級藩士出身の俳人である内藤鳴雪(めいせつ)は、魚が食べられたのは毎月3回、1日と15日、28日に限られていた、と書き残しています。

勿論、裕福な大名たちは美味しいものを食べていたはずです。

現代と当時の大きな違いと言えば、たんぱく質の摂取の仕方ではなかったでしょうか。
今の時代にはごく普通に食べられている肉類も、当時の人達はほとんど食べる習慣がなかったからです。

江戸時代の人々はたんぱく源のほとんどを豆類や魚類に求めていました。

江戸時代の武士や庶民の食事について

今の私たちから見ると、醤油や砂糖は和食には欠かせない調味料となっていますが、これが広く使われるようになったのは江戸時代からだとされています。

煮物料理などもこれらの調味料が使われるようになったことで、食べられるようになった訳です。

とは言え、庶民の食生活は決して豊かなものではなく、ご飯にお味噌汁お漬物を添えた「一汁一菜」という献立が一般的でした。

その「ご飯」でさえも稗(ひえ)や粟(あわ)と言った雑穀が中心で、白米を口にすることはまずないと言ってよい状態だったのです。

いくらか余裕のある家庭では、ひと月に1回か2回食べることが出来たようですが、そもそも幕府から庶民達はお米を食べることを制限されていたといった事情がありました。

庶民の間では魚を口にすることはあまりなかったのですが、これは武士でも同じでした。
但し、その理由は少し違うところにありました。

武士の家では精進日といって先祖や親戚の命日には魚肉を食べることを禁じる習慣があり、とくに古くから続いた家では精進日が年に何度もあったからです。

また、普段の食事自体もそれほど庶民と異ならないものを食べていたと言われています。
もっとも世間体を気にする武士のことですから、祝い事などで他所の人を招いて宴会を開く時には豪勢な食事を用意していたそうです。

食生活の変化

参勤交代などで江戸に滞在した武士の間では、下肢が痺れたりむくみを訴える人が相次いで出てくるようになりました。

今でいう脚気(かっけ)ですが、江戸を離れて国元に帰ると治ったことから、当時の人達はこれを「江戸わずらい」と呼んでいたそうです。

脚気とはビタミンB1の欠乏により、心不全や末梢神経に支障をきたすことで発症する病気です。

地方では主食と言えばまだ雑穀米が主流でしたが、江戸では主に白米が食されていました。
しかし雑穀や米ぬかにはビタミンB1が含まれていますが、精米して白米にするとこのビタミンB1も取り除かれてしまいます。
この理由から江戸滞在中にビタミンB1が摂取できなくなったことが原因でした。

この頃になると食事の回数もそれまでより増えて3食となったものの、その内容は一汁一菜又は二菜というのが普通で、おかずは僅かでした。
この白米中心の食生活が「江戸わずらい」を招いてしまったのです。

しかし、江戸時代の中頃以降には白米以外にも主食として、蕎麦が食べられるようになります。
ビタミンB1の含有量の多い蕎麦は脚気予防にも有効なことから、多くの庶民に受け入れられていきました。

現代でも各地に蕎麦とうどんを出す飲食店がありますが、ある調査によれば、大阪のお店では「うどん そば」と、東京のお店では「そば うどん」と書く傾向があるのだそうです。

東京では脚気予防に気を遣った歴史がこんなところにまで反映されているようです。

食生活が変化したきっかけとは

昔の日本人が1日2食(もしくは1食)という食生活であったのは、経済的な理由があったからだと言われています。
とくに生活にゆとりのない庶民の場合は、毎日を1食とか2食でしのぐしかなかったはずです。

将軍家とか大奥などの上流階級の人達の記録によれば、空腹感を覚えたら食事をする風習もあったことが窺え、1日に3食の食事が出されていたことが分かっています。

日本ばかりでなく海外の国でも、昔は1日の食事の回数は1食とか2食というのが一般的だったそうです。

そこへパンを焼くためのトースターが発明され、発電から送電に至るまでの事業化に乗り出した発明家のエジソンがトースターの販売促進と電気需要を上げることを狙って、1日の食事回数を増やすように推し進めていったことから、日に3度の食生活というのが次第に広まっていったのだそうです。

これが受け入れられたのは、人々の生活が安定し、その水準が向上したことや、政治的な問題も絡んでいたと言われています。

こうして生活水準の上がった外国で1日3食の生活習慣が一般的となっていきましたが、食生活をはじめとする海外の文化を取り入れた日本でも、その後の経済成長などに伴って、1日3食という生活スタイルが広がっていったものとされています。

現代と江戸時代、流行は一緒?

現代人の食生活には当たり前のようにファストフードが組み込まれていますが、江戸時代にもファストフードがあったと聞いたら、意外だと思う人もいるかもしれません。

実は江戸前寿司なども屋台で握られていたもので、江戸のファストフードと言える食べ物だったのです。
卵焼きやかんぴょう巻き、コハダや煮穴子などのネタがあり、大きさは握り寿司というよりもおにぎりに近いサイズで、現在の握り寿司の倍くらいの大きさだったと言われています。
ですから2個くらい食べれば結構な食事になったようです。

お寿司以外にも、通りには沢山の屋台が軒を連ねるように並んでおり、そこでは天ぷらや蕎麦などが出されていました。

天ぷらと言えば徳川家康が鯛の天ぷらを食べたことが原因で命を落としたという話が知られていますが、庶民の間でも天ぷらは人気のメニューだったようです。

尚、屋台の天ぷらでは、食べやすいようによく海老や穴子なとを串に刺して売られていたようです。

お蕎麦の屋台も多くのお客さんを集めていたようで、夜更かし好きな江戸っ子たちで深夜まで賑わっていました。

現在でもよく見られる立ち食い蕎麦の光景は、江戸時代にもあったようです。

こうした屋台のファストフードは、少しお腹の空いた庶民達が胃袋を満たすのに便利な存在だったに違いないでしょう。

江戸時代の食生活と比較してみて

いかがでしたか?

現代の食生活と江戸時代の食生活を比較してみると、全然違うというところや、似ているところ、様々あることがわかりますね。

江戸時代にも、食べ物は違えどファストフードが流行しているというのは面白いです。

食文化は日々変わりますが、美味しかったり便利だったりするものはいつまでも愛されるということでしょうか。